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ジェフリー・ディーヴァー『静寂の叫び』

既出記事『聴覚障害者が登場する小説』参照。
あの記事以降、他の小説を調べたり未読本を読了したりと、聴覚障害者が登場するノンフィクション小説を積極的に発掘してきた。


その中で最も印象に残ったのは、海外の翻訳小説である1冊。
静寂の叫び『静寂の叫び』
(著)ジェフリー・ディーヴァー
(訳)飛田野裕子
早川書房(1997/06)


物語のヒロインであり、人質となった聾生徒を守るために聾者でありながらも脱獄囚たちに挑むという女性教習生・メラニー。
最初の彼女は、そんなに魅力的に思えなかった。
所々で、自分の身の可愛さが目についてね、若干苛立ったりもした。
しかし読み進めていくうちに、脂汗と恐怖とを伴いながらも強さを発揮し始めたメラニーに、次第に共感を覚えてしまった。


何故なら、メラニーは健聴者と聾者との世界で、あいまいに揺れ動いていたからだ。
健聴者と聾者というボーダーライン上に頼りなく立ちながら、それぞれの世界に片足を突っ込んでいる。
音楽を愛し音を得たいと秘かに熱望切望する一方で、聞こえない人間として全うに生きることに迷いを感じている。


つまり。
自分は聞こえないけれど、音や声を捨てることができない。
自分は聞こえないけれど、残存聴力や読唇術や口話を諦めることができない。



―――私と似ているな、と。


手話を第一言語とし、音も声も知らない完全なるデフとして生きるスーザンは、聞こえない自分を堂々と肯定している(親が聾唖)。
反面、手話も口話も読唇術も駆逐し、健聴者にも聴覚障害者にも交わる中途半端な存在であるメラニー(親が健聴)。
この2人の考え方・生き方は、細かい箇所を除けば、まさに地元の聾者たちと私みたいだな……と。


「俺らは聴こえない。音も声も捨てる。だから、お前も捨てろ!聾者になれ!」
「冗談じゃない!閉ざされた世界で、聾者同士で馴れ合ってどうする?健聴者とのコミュで受けた傷の舐め合いに、私まで巻き込むな!」


別に、聴こえないことが恥ずかしい訳じゃない。
正直、聴くのも話すのもしんどい。
けれど、そこで諦めてしまったら、何のために親の期待を背負いここまで生きてきたのか、意味を失くしてしまう。
確かに、音も声も潔く捨ててしまえば、目が覚めるような自由・世界観が広がるかもしれない。
聴こえない自分を肯定することは、同時に、自分を優しく労るように愛せることだ。
何にも誰にも気後れせず、プレッジャーに縛られず、自分に無理することもなく、堂々と生きられるならば。
『コミュニケーション障害』という聴こえない話せない苦しみで、窒息するような毎日を過ごすよりも。


だけど、現実はそんな生易しいもんじゃない。


生きていくには、食料がいる。
風雨をしのぐ家がいる。身体を休める寝床がいる。衣服がいる。
その糧を得るにはやはり、健聴者を経由するのが必然的だ。
だから、健聴者と交じるコミュニケーション・スキルまで捨ててしまえば、私はもう二度と健聴者と関わる勇気すら持てなくなる。外へ歩けなくなる。
元来が小心者であり、臆病者でもある私だからだ。
そんなね、皆が皆、強い人とは限らんよ。堂々としていられる人ばかりじゃない。


なぜ彼ら聾者には、それがわからないのだろう。


健聴者と常に関わっていなければ、もろく折れてしまう。
そんな自分を知っているからこそ、私は聾者だけの世界に甘んじていたくない。
強くなりたい、強くありたい。それらを一途に、自分を支えにして生きてきたから。
そして、音や声がどんなものか知っている私だからこそ、聞こえたい音がある。伝えたい言葉がある。
聴覚障害者の世界。健聴者の世界。
変に分け隔てず、人それぞれ、どっちにも通用してもいいじゃない?
「中途半端だ」「少しでも聞こえよう話そうとするお前はプライドが高い」「偉そう」
そんな俗物的じゃないんだけどなあ……。
健聴者に失望し傷ついてきた痛みや苦悩等を、感情論で矛先をすり変えるより、もっと柔軟に考えればいいのに。


P.287
『“聞く”という言葉がもつ意味は、わたしにとってはただひとつしかない。それは、わたしがわたし自身でなくなることよ』

そんなスーザンの台詞に、ふと、ヘレン・ケラーの言葉を思い出したよ。(『聴覚障害者』wiki参照)

Blindness cuts you off from things; deafness cuts you off from people.
(目が見えないことは人と物を切り離す。耳が聞こえないことは人と人を切り離す。)



一方、スーザンに出会う前のメラニーの言動は、今の私とまったく同じ。
P.287〜288
私も長年、“外の世界”にも通用する人間になろうとしていたから。そのためのルールは、“先まわりして自分の言動を決める”こと。次に何が起こるか、どんな質問をされるかを常に考えておいて、人を交通量の多い通りや建設現場の近くへ近くへ誘導していかなければならない。そうすれば、もっと大きな声でしゃべってくれとか、今言ったことをもう一度繰り返してくれとか、頼まずに済むから。


そう。
健聴者に言われるより先に予測して言動してしまうのね、私も。時に間違うこともあるけど。
人の言うことがすべて、聞き取れる訳じゃない。
耳で聞こえてきた言葉を素早く引っ張っては頭の中で文章として繋げた上で、初めて、相手の台詞がわかってくるからさ。
再度聞くという迷惑や負担をかけたくない聴覚障害者の気遣いなどを露も知らずに、健聴者は勝手な思い込みと決め付けによる変な気遣いで接してくる。
残念だな。


だから、私は最初から健聴者に期待しない。
期待すればするほど裏切られるから、無関心でいた方が傷は浅くて済む。



健聴者と関わっていれば、本来の自分自身を発揮できないのもわかる。
そして、何かと傷つくのを避けられないってこともわかる。
わかるが!
何もね、白黒付けなくても良いんじゃない?
限りなくグレーのままでいるのもしんどいけどさ……あ〜何だろう?
スーザンの言うことも正論だが、健聴者を閉め出してまで凝り固まった世界の中で生きていくのもまた、どうかと思う。
確かに、聴覚障害者と健聴者の世界は相容れないが、共存して生きることはできるよ。
現実を見ればわかる。
こんな場合、有川浩さんだったらどう答え、どんな文章を紡ぎ出してくれるかな〜?


ん〜私のボキャブラリー不足で上手くまとまらんかったけど……ホンマ、聴覚障害者を安易に十把一絡げにしない方が良い。
「どのくらい聞こえないの? 私の言うことはわかるかな?」
「あなたの力に少しでもなりたいから、私はどうすればいいかな?」
思い込みや決め付けで話さずに、最初に聴覚障害の程度を聞くことから始めよう。
聴覚障害者側も嬉しいし、とても助かるよ。
最初が肝心。


ちなみに、私は最初のとっかかりが掴めないまま失敗してばかり。
最初からまったく聞こえない話せない聾者ならば事態は簡単で済むが、私の場合は補聴器があればそれなりに聞こえるし話せる。
だから「聞こえるんだ話せるんだ」と誤解されるばかり。
あ〜いちいち健聴者に言って回るのも面倒だし、自分一人だけが空回りして滑稽に終わっちゃうし。
タイミングが難しいね。


まあ、か〜な〜り話は脱線したが。
『静寂の叫び』は、作者の綿密な取材を元にして書かれているだけに、聴覚障害者のリアルが違和感なく共感できた。
日本と海外との文化の違いはあれど、デフとして生きる思いや苦悩などは世界共通だなあと。


最後に。
サスペンス小説としては面白かったが、最後のどんでん返しが慌ただしすぎて呆気なく終わったのは、ちょっとした不完全燃焼だな。
2010.08.18 Wednesday 21:23 | - | - | 
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